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2011年3月11日、未曽有の大災害である東日本大震災が起こりました。震源地の東北のみならず、関東や中部地方でも一部では震度6を超え、建物の崩落や液状化現象など大きな影響が出た地域がありました。そんな中、復興支援に尽力したお坊さんたちがいるのをご存じですか。

[僧侶 伊藤師]

[僧侶 伊藤師]

そもそも、なぜ静岡県にお住まいの伊藤さんが、福島で災害復興支援活動に従事することになったのでしょうか?

東日本大震災の直後、『曹洞宗 東日本大震災災害対策本部』の立ち上げメンバーと近しい先輩僧侶の一言です。「福島の災害復興支援をできる人を、地元から出せないか?」と聞かれた際に、「うってつけの人がいますよ」と推してくれたそうです。日本全体が危機に陥ったような状態で、自分も微力ながら力になりたいと思い、引き受けました。災害対策本部には、福島県出身の僧侶やスタッフしかおらず、静岡県に住みながら運営スタッフとして活動に従事したのは私だけでした。

 それが、東日本大震災の直後の出来事でした。結局、2011年5月から2015年5月までの4年間、全国曹洞宗青年会(以下、全曹青)災害復興支援部事務局員や同事務局長という立場で、主に福島での支援活動に従事しました。また、その後2年間は現地から離れ、静岡で「アドバイザー」として後方支援しました。

伊藤さんが福島で活動に従事されていた4年間で、主にどんな活動をされていたのですか?

活動は多岐にわたりました。例えば、墓地の土砂を取り除くなどの一般ボランティアの受け入れと実施、サマーキャンプ「こども自然ふれあい広場」、臨時読経供養、除染ボランティアなどです。

特に、私たちが注力したのが、いわゆる傾聴を行う「行茶(ぎょうちゃ)活動」です。「行茶」とは通常「お茶を飲むのも修行の一環」という禅の考え方のもと行われるものです。仏教儀式の中で行われるほか、お寺の催しとして行うこともあります。被災地では、お茶をふるまいながら心に寄り添い、相手の声を聞くことが活動の中心になりました。当初は臨時避難所である体育館で行っていましたが、仮設住宅への移行が進んでからは、各仮設住宅を巡っての開催となりました。

お坊さんが復興支援活動がするのは珍しいかと思いますが、苦労したことはありますか?

実際、宗教色を敬遠して「お坊さんが来るなら行かない」と言って欠席される人がいたこともありました。

でも、苦労よりやりがいの方が大きかったです。なぜなら、被災者の方の内なる声に耳を傾けることができるからです。被災者の方たちからすると、県外から来るボランティアには自分たちの土地のいい面・悪い面も話しやすく、また、津波の話をはじめとした辛い話もできる機会になっていたと思います。

各被災地域で「行茶活動」を行う中で、印象的だった出来事を教えてください。

印象的な出来事は2つあります。一つは、震災直後に避難所だった体育館でのこと。「傾聴」をするということの大変さと大切さが身に染みた出来事でした。ある女性が「私は○○と○○が死んじゃって、あの人は○○と○○を亡くしちゃって・・・!」と、興奮状態で声高にお話されているということがあったんです。

本来であれば、人の死は大きな声で話すべきではないのかもしれません。でも、「この話はそばでずっと聞くべきだ」と、とっさに感じました。「お茶のお代わりを・・・」などと言って、その場を一瞬でも離れれば、二度とその話はできなくなるような緊張感があったからです。

そして、「共にお茶を飲む」ことより、「相手が話したい内容はもちろん、話したいタイミングを大切にすること」が重要なのだと痛感しました。「傾聴」をするということの大変さと大切さが身に染みた出来事でした。

もう一つは、「お坊さんたちのお経を聴きたい」とリクエストされたことです。。曹洞宗の僧侶という立場で復興支援をしていたものの、それまで、曹洞宗として復興支援をしていたものの、仏様やお経の話など布教は一切していませんでした。お話を聴くことが目的であって、曹洞宗の宣伝などはもってのほかだと考えていたからです。

逡巡しましたが、「聞きたくない」という声がなかったので、その場にいた僧侶たちで、般若心経をお唱えさせてもらいました。家を失くし近しい人を亡くされた方たちにとって、お経は慰霊や供養という側面だけでなく、メンタル安定効果など、リクエストされた方の何かしらの思いがあったのかなと思います。

そんな「お経を聴きたい」というリクエストは、その場面一度きりでした。

他にもさまざまな活動をされた中で、忘れられない出来事はありますか?

サマーキャンプ「こども自然ふれあい広場」がとても心に残っています。このプログラムは、被災した子ども達を連れて受け入れ地域に旅行するというプログラムで、各地域の青年会が連携して行う事業です。

目玉は、旅行先に住む子ども達との交流です。福島の和太鼓グループの子どもたちを、秋田の男鹿半島にある和太鼓グループの子どもたちに引き合わせました。

福島と秋田の子どもたちが和太鼓の演奏交換をしたり、一緒に合奏したりしているのを見たときは、本当に感動しました。今まで、結婚式や地域の催しで、和太鼓演奏を聞いても、あまり印象に残らなかったのに、不思議でしたね。自分でもなぜか分かりませんが、「子どもたちが懸命につむぐ和太鼓の音色は、こんなにも素晴らしいものなのか」と、心を動かされたのです。

福島県に移住しての活動ではなく、静岡県から通い続けたと伺いました。体力的にも精神的にも辛いときもあったのではないでしょうか。

そうですね。私にも、実家の寺院での業務があります。例えば、土日は檀家さんの法要があるほか、お盆の期間は檀家さんのお宅を周りお経を上げさせていただきます。僧侶としての普段の仕事を抜きに、災害復興支援のみに携わるということはできませんでした。4年の間は、静岡~福島間を最低週に2往復はしながら活動に従事しました。前半2年の支援対策本部での活動の際はビジネスホテルに宿泊しながら、後半2年は、アパートを借りての2拠点生活を送っていました。

正直、県外スタッフという「孤独感」に対処するのが大変でした。青年会のスタッフは自分一人。そして、片道6時間の車の時間も、一人です。帰宅しても家族や地元の仲間に現在の状況を詳しく話すことはなかなかできず、自分のメンタルケアをすることに難しさを感じていました。

県外から赴く困難さもある中で、何が原動力となっていましたか?

今まで出会うことのなかった僧侶との出会いです。災害復興支援という活動を通して、同じ志を持つ仲間に出会えました。地元にいるだけでは、絶対に感じなかった「世界が広がる感覚」がありましたね。

また、各市町の社会福祉協議会やNPO法人など関係機関の皆さんとの出会いも新鮮でした。「ボランティア養成講座」などの各種研修に参加したのですが、そのような場にお坊さんが参加するということは、普段はまずありません。珍しい存在として認知してもらい、行茶など支援活動をコーディネートする上で人脈を広げることができました。

そして、災害復興支援部の働きかけで、静岡県社会福祉協議会主催の「災害支援活動を行う自治体やNPO団体との情報交換会」に参加できました。静岡県は、南海トラフ地震がいつ起こってもおかしくありません。災害復興支援部としては、地震が起きてから初めて県内の関係機関が連絡を取り合うのではなく、事前に顔の見える関係づくりをすることが目下の課題でした。今では、静岡県の対応部署や静岡県社会福祉協議会、また災害復興支援部を含む災害関連の各種団体が定期的に集い、情報交換を行っています。

4年間の災害復興支援活動を通して、自分のあり方や周囲の変化はありましたか?

自分が静岡から福島へ行ったことで、地元の仲間の意識に変化がありました。「何か災害があれば、現場に手伝いに行こう」という声が上がるようになったのです。東日本大震災以降も各地で地震や豪雨災害が続いていますが、支援活動の敷居が以前より下がったのを感じています。

また、僧侶として日常の仕事をするよりも、「自分のあり方」「自分の役割」や「被災者・被災地」「そうでない者・そうでない土地」について、深く考えることが多い4年間でした。

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